松山地方裁判所 昭和37年(ヨ)155号 判決 1965年5月26日
申請人 中川境子
被申請人 松山生活協同組合
引受参加人 財団法人永頼会
主文
(一) 被申請人は、申請人に対して、金三六九、〇八三円の支払をせよ。
(二) 引受参加人は、申請人をその従業員として取扱い、かつ、申請人に対して、昭和三九年一二月一日から本案判決確定まで毎月末日限り金一二、七二七円の支払をせよ。
(三) 申請人のその余の申請を却下する。
(四) 訴訟費用は、被申請人及び引受参加人の負担とする。
(注、無保証)
事実
(当事者の求める裁判)
申請人は「(一)被申請人は、申請人に対して、金四六四、九三〇円の支払をせよ。(二)引受参加人は、申請人をその従業員として取扱い、かつ、申請人に対して、昭和三九年一二月一日から本案判決確定まで毎月末日限り金一五、八八六円の支払をせよ。(三)申請費用は、被申請人及び引受参加人の負担とする。」との裁判を求め、被申請人は「本件申請を却下する。申請費用は、申請人の負担とする。」との裁判を求め、引受参加人は「本件申請を却下する。」との裁判を求めた。
(申請の理由)
第一、
一、被申請人は、昭和三一年六月松山市民有志を発起人とし、健康保険なみの費用で療養できる市民の病院を作ることを趣旨とし、消費生活協同組合法に基づいて設立された協同組合であるが、その医療部として同月内科、外科ベツト数約三〇床の松山市民病院を開院した。その後昭和三六年八月八日には、一三五ベツトの新館を建築して、従業員数は九〇余名に達した。
二、申請人は、昭和三一年四月准看護婦の県検定試験に合格し、同年六月一日被申請人に准看護婦として雇用され、以来松山市民病院に勤務し、昭和三七年六月現在一ケ月の平均賃金として毎月末日限り金一五、八八六円の支払を受けていた。
第二、解雇の意思表示とその経過
一、松山市民病院労働組合(組合員数四九名以下組合という。)は、昭和三六年七月から前記新館増築に伴う看護婦等の増員その他看護婦の労働過重是正、待遇改善を要求して病院と団体交渉を継続し、同年九月一二日には組合大会を開き、その要求貫徹を再確認し、同月一四日にその要求について団体交渉が行われる予定となつていた。ところが、当日、被申請人は、この団体交渉を理事会開催の理由をもって延期し、翌一五日突如組合に対して申請人を解雇するので労働協約第一八条(解雇協議約款)により協議したいと申入れ、されに、その直後申請人に対して口頭で出勤停止処分に付する旨を通告した。
二、組合は、同月一八日組合大会を開いて不当処分撤回のためのスト権を確立した。被申請人は、翌一九日申請人の出勤停止処分を撤回したが、翌二〇日、解雇協議のための団体交渉で、被申請人が組合に示した解雇理由は、次のとおりである。
「申請人は、従来より病院の経営に非協力的であるが、近時
1 他の看護婦が病院内を掃除しているのを見て、余計な事はしなくてよいといつて、掃除するのをやめさせたりして、真面目に働く者の勤労意欲を阻害している。
2 日勤者がその仕事を終つてまだ勤務時間内にあるときに、次の準夜勤者のために患者の処置をしようとするのを見て、「それは準夜勤者のやる事だからしなくてもよい。」といつて、させないようにする。
3 上司である主任が退院患者のシーツや氷枕を回収しておくようにいいつけてもしない。
4 従来から大掃除のときは、職員全員でしていたのであるが、大掃除など看護婦のする仕事でないといつて自身せず、かつ、同僚にもさせないよう煽動する。
5 病院が婦長・主任に診療報酬請求事務の一部をさせておると、「そのような仕事は看護婦のする事でない」といつて、婦長、主任に圧力を加え、そのため、主任は帰り、婦長は隠れてその仕事をしなければならないような事情を作る。
6 上司である主任が患者の食札の整理を命じると、主任のする仕事は何かといつて、いいつけに応じない。
7 外来看護婦が欠勤した場合、三階詰所の看護婦に応援を命じると、「外来看護婦の欠勤による手不足は、他の外来看護婦によつて補え。」と上司に反対し、命令秩序を阻害したりする。
このような状況であつて、要するに、上司の命令に従わないのみならず、上司に圧力を加えて業務の運行を妨げ、また同僚を煽動して勤労意欲を低下させ、病院の経営秩序を破壊しておるので、このまま申請人を雇傭していては、病院の規律がたたず経営に重大な支障を来す。」
三、被申請人は、同月二八日愛媛県地方労働委員会(以下地労委という。)に対して、調停の申請をし、これが不調となるや、同年一一月一〇日、さらに斡旋を申請して、申請人の解雇を実現しようとはかつた。組合は、約八ケ月に亘つて闘争したが、その間組合内部に動揺が生じ、申請人を支持する執行部は改選され、被申請人の要求を容れる役員が選出された。地労委は、この状態を見て、昭和三七年五月四日、「(一)被申請人は解雇の意思表示を撤回すること。(二)申請人は本人の自由意思に基づき退職すること。(三)被申請人及び組合は、申請人の退職に伴う処遇については充分に協議すること。」の斡旋案を提示したところ、組合は、組合員多数や申請人の意思を蹂躙して、同月一九日これを受諾する旨の協定をしてしまつた。
四、しかし、申請人としては、もとより、右協定に従う意思はなく、勤務を継続していたが、被申請人は、昭和三七年六月二二日、申請人に対して、就業規則第九条第六号(業務の縮少その他正当な理由があるとき)により解雇する旨の意思表示をし、かつ、口頭で前記二項と同一の解雇理由を告知した。
第三、本件解雇は不当労働行為であつて無効である。
一、申請人の組合活動
1 松山市民病院の従業員は、被申請人設立の趣旨に従い、三、〇〇〇万円の第一次的借入金を五年間で返済する計画にも献身的に協力して来たが、その後病院経営に営利追及の側面が強化され、昭和三六年八月八日落成した新館は、約八、〇〇〇万円の借入金で建築されたが、これを八年間で償却する計画がたてられた。しかし、この事業拡張の蔭にあつて、従業員、特に看護婦の労働条件は極度に劣悪であつた。例えば、同年九月ころの全組合員の平均賃金は九、一〇〇円、准看護婦六、五〇〇円(国家公務員九、九〇〇円)、正看護婦九、五〇〇円(国家公務員一三、〇〇〇円)であり、また、人員不足の結果ベツト数に対する法定の看護婦数を下廻り、夜勤等の労働過重が看護婦にしわよせされている状態であった。
2 これに対し、病院に勤務する医師、婦長、事務長を除く全従業員一九名によつて、昭和三一年一一月二一日松山市民病院労働組合が結成され、上部団体として愛媛地評中小企業労連に加盟した。そして、申請人は、この組合結成の準備の際からその中心メンバーとして活動し、結成と同時に書記長に就任した。
3 組合は、その後組合員も増加したが、
(イ) 昭和三一年一二月四日ころ第一回の越年資金要求闘争を行い、
(ロ) 昭和三二年四月二四日ころ看護婦当直制から三交替制の要求闘争を行い、
(ハ) 同年九月一七日からは、一人二、三〇〇円の賃上げを要求して闘争し、七〇〇円の賃上げで妥結したものの、組合の団結に自信を持つに至つた。
(ニ) 昭和三三年五月から翌三四年九月にかけては、労働協約退職金支給規定の締結を要求する闘争をして成果を得、
(ホ) 昭和三四年一月二二日には、一人三、〇〇〇円の賃上げを要求して闘争に入り、地労委の一人一、二〇〇円の斡旋案を受諾した。
申請人は、これらの闘争について、終始書記長(三選)として、病身の組合長に代つて賃上げの交渉に組合を代表し、或は労働協約の原案作成から妥結に至るまで組合員を指導して闘つた。
4 申請人は、昭和三四年一〇月二九日の組合大会で書記長に四選されたが、出産のため辞退して執行委員となつた。そして、翌三五年一二月まで松山市西堀端町愛生分院に勤務し、その後約一年間は育児のため組合役員を離れたが、依然として組合の中心的活動家であつた。
5 組合は、昭和三六年七月七日病院管理者と新館増築に伴う人員配置の問題で団体交渉を行つたが、その際、病室看護婦の職場代表である執行委員が出席できなくなったので、申請人は、その委任を受けてこれに出席した。
この団体交渉で、申請人は、病院長に対して、法定の看護基準によると、病棟の看護婦数は、四ベツトに一名となつておるので、九名の看護婦で開院することは無謀であることや、患者増床による看護婦の確保、その他看護婦に拭き掃除、医者や患者の引き膳、買物、洗濯、戸締り等をさせる問題、準夜、深夜勤務者増員の問題等看護婦の労働過重の点について強く要求し、結局、最終的には「夜間外来患者を受付けるのならば外来看護婦の当直制にすること、準夜勤務者を二名にすること、主任看護婦に夜間勤務をさせること、看護婦の欠員を見習看護婦で補うことはしないこと、外来看護婦が病欠の際にこれを病室看護婦で補うことはしないこと。」の五項目の要求をした。
申請人は、その翌日の団体交渉にも出席したが、被申請人はこの要求を殆んど全部拒絶した。申請人は、同月九日から同年九月一日まで肋膜炎のため欠勤し、その間の同年八月八日、被申請人は、組合の増員要求を認めないまま病院業務を新館に移転した。そのため、病院の各部署で人員不足と不馴れのため患者の不満や混乱が生じ、看護婦の労働量は苛酷なほど過重になつた。
6 申請人は、三好執行委員の委任と組合の要請で、同年九月四日の団体交渉に出席した。団体交渉の内容は、薬局一人増員の件、炊事夫、調理士の増員、準夜、深夜勤務者をそれぞれ二名にすることの要求であつた。申請人は、特に、病院の鈴木事務長代理に対して、法定の看護基準の問題について詳しく説明したところ、病院側は全く圧倒された形で、病院としても実態の調査をして、一週間後に再び交渉することとなつた。
その直後、前記第二の経緯で、申請人は、被申請人から出勤停止処分、次いで解雇の意思表示を受けた。
二、本件解雇は、申請人の正当な組合活動を理由とするものである。すなわち、
1 被申請人の示した解雇理由は、大部分が事実無根であり、一部が真実であつても、その行為自体労働者として当然の権利を主張したに過ぎない。被申請人が列挙している事実は、前記のとおり、当時の団体交渉で組合が労働条件改善の具体的例として要求していることである。このような事実を解雇理由とすること自体、被申請人が申請人ら看護婦に対し、いかに違法かつ無定量の労働強化を押しつけてきたかを物語つているものである。
このような労働者として当然の権利要求が「要するに上司の命令に従わないのみならず、上司に圧力を加えて業務の運行を妨げ、また同僚を煽動して勤労意欲を低下させ、病院の経営秩序を破壊する。」というに至つては、被申請人の露骨な団結否認、組合活動嫌悪の態度を暴露する以外の何ものでもない。
2 また、本件解雇の時期からみても、これが申請人の組合活動特に前記七月七日及び九月四日の団体交渉における活動を理由とするものであることは明白である。殊に、その後の被申請人の説明によると、解雇理由の大半は三月から五月ころの出来事であるが、そのころには一言の注意もなく、突如として、被申請人が増員要求で押し込まれた時期に、その打開報復策として、これらの些細な事由を羅列して解雇理由としていることからみても、これが申請人の前記団体交渉の際等における正当な組合活動を嫌悪した結果であることは明らかである。
第四、解雇権の濫用
仮に本件解雇が不当労働行為でないとしても、その掲げる理由は、解雇という労働者にとつて致命的な処分に値する程度のものではない。従つて、就業規則第九条第六号の「正当な事由」に該当しないから、解雇権の濫用として無効である。
第五、経営主体の交替
被申請人は、昭和三九年一二月一日、松山市民病院を引受参加人に移管した。被申請人と引受参加人とは、病院の管理、人事、会計の点では別個独立の経営体であつても、同病院の移管は、被申請人の建物、設備、器具、什器一切及び病院の全職員を現職、現給のまま引受参加人の管理に移したものであるから、有体、無体の財産及び労働者の有機的一体たる経営組織はそのまま同一性を有しつつ存続し、単にその経営を指揮、管理する経営主体が交替したに過ぎない。この場合、従前の労働契約は、当然新経営主体たる引受参加人に承継され、申請人は、同日以降引受参加人の従業員たる地位を取得したことになる。
第六、仮処分の必要性
申請人は、被申請人及び引受参加人に対して、それぞれ従来の賃料請求と従業員としての地位を有することの確認を求めるため、本訴提起の準備中であるが、申請人は、被申請人から支払われていた収入と夫悦良(月収一四、〇〇〇円)の収入により、夫の母(六五才で病身)と長男(三才)を養つて来ていたが、本件解雇により収入の大半を失い、夫の収入だけでは生活できないし、他に生活を維持するに足る財産等もない状態であるため、申請人の家族の生活が危殆に頻し、本案判決の確定を待つ余裕がない。
第七、よつて、申請人は、被申請人に対して、昭和三七年六月二三日から昭和三九年一一月三〇日まで一ケ月金一五、八八六円の賃金合計四六四、九三〇円の支払を求め、引受参加人に対して、申請人が引受参加人の従業員たる地位を有することを仮に定めること、同年一二月一日から右同様の割合による賃金の支払を求める。
(被申請人及び引受参加人の答弁)
一、申請の理由第一の一は認める。但し、被申請人の設立は昭和三〇年一二月である。
同二は、賃金の点を除き、認める。申請人の昭和三七年六月現在の一ケ月平均賃金は、一二、七二七円で、その支払日は本俸毎月二五日、夜勤手当毎月三〇日である。
二、申請の理由第二の一のうち、組合大会が開かれたことは知らないが、その余は認める。団体交渉は、新館(診療室及び病棟)増築に伴う人員の増員と配置の問題について行われた。
同二は認める。
同三のうち、被申請人が申請人主張のとおり、調停及び斡旋の申請をしたこと、組合執行部が改選されたこと、昭和三七年五月八日地労委が申請人主張の斡旋案(もつとも、その趣旨は、申請人が退職しないときは解雇してもよいとするものであつた。)を示し、同月一九日組合大会でこの斡旋案受諾の決議をして、同月二二日労使間で同文の協定が締結されたことは認める。その余は争う。
同四は認める。
三、申請の理由第三の一1は争う。被申請人の第一次借入金は七九〇万円で、その返済計画は三年であつたが、実際には六年を要した。新館建設の借入金は、約八、〇〇〇万円で、銀行に対する返済計画は五年とされているが、被申請人の返済目標は約一五年である。なお、労働条件が官公立の病院に比較して低いことは認めるが、私立病院に比べると悪くない。
同2は認める。但し、申請人は、組合結成当時副組合長であつた。
同3のうち(イ)から(ホ)の事実は認めるが、その余は知らない。
同4のうち、申請人が昭和三五年一二月まで愛生病院に勤務していたことは認めるが、その余は知らない。申請人は、同年春ころ、組合の執行委員を辞め、その後組合活動をしていないばかりでなく、同年秋ころには組合に協力的でないため除名されるかもしれないといわれていた。
同5のうち、昭和三六年七月七日申請人主張の団体交渉が行われ、申請人がこれに出席したことは認めるが、その余は争う。申請人主張の五項目の要求は、議題に関する意見調整の際、組合側から出たが、これについては労使間に意見が調整された。そして、同年八月八日新館へ引越したが、大がかりな引越であつたため、種々の混雑と暫時の不馴れは免れなかつたが、申請人主張のような事情ではなかつた。
同6のうち、同年九月四日申請人主張の団体交渉が行われたこと、申請人がこれに出席し、法定看護基準の問題について意見を述べたことは認めるが、その余は争う。申請人の意見に対しては、鈴木事務長代理よりその法解釈適用について説明しており、病院側が全く圧倒されたような事実はない。
同二の1、2はすべて否認する。
同第四は争う。
四、申請の理由第五は否認する。
引受参加人は、昭和三九年一〇月二八日愛媛県知事の認可を受けて設立した財団法人であつて、医学、医術の研究機関の設置、看護婦養成所の設置、病院の開設等を目的とし、同年一一月一四日その設立登記を経由した。
引受参加人は、病院開設に当り、被申請人より同人が松山市民病院として使用していた建物及び設備を借受け(これらは、引受参加人が被申請人から寄附を受けることになつている。)これを使用して同年一二月一日から病院を開業しているが、被申請人の債権債務を引受けたり承継したりしていないし、労働関係の引継ぎの協定もない。消耗品一切は、同年一一月三〇日その残存数を調査し、これを引受参加人が買受けている。
従業員については、被申請人に勤務していた鈴木武、香川省、大井淳道が同年一一月一五日退職し、翌一六日引受参加人がこの三名を事務職員として採用した。他の従業員はすべて、引受参加人が、同月二四日の愛媛新聞求人欄に広告して公募し、応募者を順次銓衡の上、同月二八日採用決定し、同年一二月一日から就業させた。
被申請人は、同年一一月三〇日唯一の事業である病院業務を廃止し、同日全従業員を解雇した。そして、被申請人に勤務していた従業員で、引受参加人の右公募に応募した者は、前記の手続を経て採用し、新たに雇傭契約を締結したが、この手続を経ていない者は採用していない。ただ、右採用に当つては、引受参加人独自の立場において、便宜的に被申請人の従業員を優先的に取扱つたに過ぎない。
以上のとおりで、被申請人と引受参加人との間には、営業譲渡と同性格の契約は存しないし、その実体もない。元来、被申請人は消費生活協同組合法に基づく法人で、引受参加人のような公益法人とはその性格を異にする。また、被申請人は、組合員の生活の文化的経済的改善向上を図ることを目的とし、そのため組合員の生活に有用な協同施設として病院事業を開設したものであるが、引受参加人は、一般公衆の利益を目的とし、そのための施設として病院を開設した。従つて、両者の間には、主体と対象とに異質性があり、営業譲渡や承継の観念を入れる余地は存しない。
五、申請の理由第六は争う。
(被申請人及び引受参加人の主張)
一、被申請人が申請人を解雇した理由は、「申請人が従来から、上司に反抗して業務を妨げ、同僚を煽動して業務秩序を破壊し、看護婦の業務を形式的に単に補助業務のみでよいと同僚に申向けて従業員の勤労意欲を阻害する行為があり、殊に新館開院の移転による混乱に乗じて、従業員を煽動し、勤労意欲を低下させ、病院業務の遂行を妨げ、病院経営を破壊するおそれが顕著であつた」ことに要約され、その具体例の一部については、昭和三六年九月二〇日に組合に通知したとおり(申請の理由第二の二のうち1から7)であるが、さらに、ここに詳説する。
二、松山市民病院は、昭和三一年六月資本金一六〇万円で開院した小病院であつた。その後、愛生分院を合併し、八〇ベツトを持つようになつた。しかし、経済ベツト数二〇〇から二五〇ベツトには程遠い状態で、患者サービス及び従業員の待遇改善が十分に行えないので、昭和三五年新館の増築にとりかかり、翌三六年八月一〇日その開院の運びに至つた。病院は、新館開院に伴う人員の増員・配置について組合と協議し、一応八〇ベツトを目標に増員することになつたので、その募集を行い、求人難のため計画通りには運ばなかつたけれど、受付、薬局、検査、X線、看護婦等を増員した。看護婦については、新館開院前、本院は婦長を含め一六名、見習四名、分院は婦長を含め八名、見習一名であつたが、分院は患者四名に一名の看護婦の割合からすると看護婦数が二・三名多い状態であり、また、本院は、開院した八月に一二名、翌月四名計一六名を増員したから、患者数に比較すると充分な看護婦がいた。したがつて、申請人が法規上必要な人員が不足する云々と主張していたことは、誤りである。申請人及び同人の指導する一派は、右のような状態を理解しようとしないで、病院の民主化を隠れ蓑として、実は病院を混乱させ破壊させることを目的として行動していたといわざるを得ない。現に、申請人解雇後は、従業員の気風が一変し、全員患者の生命を預る使命と責任感にあふれ、患者に対するサービスの向上に努めているが、この事実を見ても、申請人がいかに病院経営に非協力的であり、業務運行を阻害していたかが証明されるであろう。
三、申請人が、上司に反抗する性行を持つていたことは、「院長も看護婦も同じ人間だ。挨拶する必要がない。」と語り、従業員間に変人視されていたことからも判るが、主任に反抗する態度をとつた例として、次のような行為があつた。
1 退院患者のシーツや氷枕を回収し、ベツトを整理するよう命ずると、「そんなことはする必要がない。貴女がやれ。」といつてしない。
2 勤務時間中看護婦詰所で休んでいるとき、他の係の仕事の手伝を命じても、「私は別の係だからする必要がない。」といつてしない。
3 主任が他の看護婦に注意すると、「貴女は経営者でないのだから黙つていたらよい。」という。
4 外来看護婦の応援を命ずると、「外来のことは外来でやれ。手伝う必要はない。」といつて同僚をも煽動した。
5 食事箋の整理を命ずると、「主任の仕事は何か、食事箋も書かないで何をするのか。」といつてしない。
6 病院が婦長、主任に保険請求事務のためカルテの照合をさせていると、「看護婦のする仕事ではない。」といつて圧力を加えた。
四、申請人は、主導となつて同僚看護婦のうち駄場、汐見、堤、小島らと一派をなし、他の同僚を煽動して業務秩序を破壊していたが、具体例として次のような行為があつた。
1 分院勤務当時、同僚を煽動し、勤務時間を勝手に短縮して同僚を帰したことがあつて、病院より厳重に注意された。
2 新館移転直後は、どの部署も不馴れなため混乱し、仕事が勤務時間を超えることもあつたが、この場合、申請人は「主任がとろとろしているから帰るのが遅れたのだ。五時が来たら皆帰ろう。」と煽動し、患者の処置等を放置して帰る情況を作つた。
3 夜間の緊急を要する患者の介助については、準夜、深夜勤務の看護婦が行うことになつているが、申請人及びその一派は「外来は外来でやれ。」といつて介助を拒否した。
4 日勤者が、その仕事を終えてまだ勤務時間内にあるとき、次の準夜勤務者のために患者の処置をしようとするのを見て、「準夜勤務者のすることだからしなくてもよい。」という。
5 見習看護婦については、勤務中は主として雑用をさせているが、申請人は「見習に雑用をさせるな。」と上司に申向け、見習看護婦の勤労意欲を低下させるよう煽動した。
五、看護婦業務とは、病状の観察、療養の指導、臨床看護婦等看護固有の業務と医師の指示に基づいて行う診療補助業務とに分れる。看護固有の業務は、看護婦独自の判断で行うべき業務であり、診療補助業務は、婦長、主任を通じて医師の行う指示に基いて行われる業務である。
以上のような看護婦の業務が円滑に行われてはじめて充分な医療が行われるのであるが、申請人及びその一派は、民主化に名を藉り、看護業務は単に医師の指示による定期的な診療補助業務でよいと称して、その風潮を一般に作り、これを注意されると、上司に圧力をかけて業務の運行を阻害し、従業員の勤労意欲を阻害して来た。その例として次のような行為があつた。
1 (外来患者の介助に応じなかつた。)
昭和三六年八月二二日夜、急患が来院したので、事務宿直の大井淳道が病棟詰所の準夜勤者で申請人一派の汐見看護婦に患者の介助をするよう申付けたが応じないで、医師自ら介助を行い診察をした。同年五月ころ、外来看護婦に欠勤者が出たので、詰所の看護婦にその応援を命じたところ、申請人一派の汐見、駄場、堤看護婦はともにこれを拒否し、他の看護婦もその雰囲気に押されて困惑の状態になつた。(外来において、看護婦の介助が必要な点は、医師が診察し易いように患者の衣服を脱がせ、体位を定めたりすることであるが、特に急患の場合は、急変することがあるので、正確な判断のもとに診療に協力する必要があるのである。)
2 (患者の療養指導を妨げた。)
同年八月、井門看護婦が患者に対し療養の仕方、心構を指導していると、申請人らはこれを嘲笑した。また、申請人は、当時病気欠勤で休養していたが、しばしば病院詰所に出入りし、その一派と談合して「病院は建築のしわ寄せを看護婦にもつて来ているのだ。」とデマをいい、患者に対して「我々の要求を通すために患者と一緒になつて病院と闘おう。」と患者の署名を集めるなどして、患者一般を動揺させた。
3 (病室の環境を整えることに反対した。)
申請人は、旧館時代から病室、病床の環境整理に協力しなかつたが、同年五月ころ、竹村主任看護婦が、業務が一応済み、手が空いていたので、病室の掃除をしようといつたところ、申請人らは、「そんな必要はない。」といつて腰掛を出して坐つてしまつた。竹村主任は、やむなく他の見習看護婦らと作業をしたところ、申請人は、婦長に対し「見習に掃除をやらせるな、看護業務をやらせ。」と反対した。
同年九月、婦長が見習看護婦に病室の整頓を命じたところ、申請人一派の駄場は「床頭台の掃除はしなくてよい。」といつた。
申請人は、同月上旬午後五時過ぎころ、三階詰所に新規採用者を集合させ「主任がとろとろしているから帰りが遅くなるのだ。五時が来たら仕事を放つて帰ろう。」と煽動した。
昭和三七年一月中ころ、竹村主任が山本見習看護婦に「床頭台が汚れているから、掃除はもつと気を付けてするよう。」と注意したのに対し、駄場は「掃除なんかする必要はない。」といつた。
4 (医師に対する任務にそむいた。)
申請人は、昭和三六年九月中旬、渡部医師の指示に従わないで、注射薬を替えて患者に施注した。また、そのころ、渡部医師から何の指示もないのに無断で患者に氷枕を与えた。(治療の補助業務は、看護婦の業務上の医療行為であるので、医師の指示により、その監督の下に最も厳格に行わなければならない。仮に、看護婦が勝手に注射等の処置を行うことがあつては、医師の治療活動を阻害し、医療秩序を破壊することになるのである。)
六、以上のような具体例は、日常枚挙にいとまがない位にあり、それが常時申請人の職務遂行上にまた、病院での看護婦としての生活上に現われていたから、これを放置しておいては、病院の業務遂行が妨げられ、病院経営が破壊されるに至るので、被申請人は、申請人を解雇したのである。(被申請人は、あくまで申請人及びその一派が考えを改めることを期待し、注意と助言を続けて来たのであるが、申請人らは、注意を与えると、反抗するか或は黙否し、却つて故意に病院の業務を妨げる言動をとつて来たのである。本件解雇問題発生後においても、申請人は、自己の行為を反省するどころか、却つて「三好、宮田医師、赤松婦長を辞めさせろ。」というに至つては、施すすべもない。)
要するに、被申請人は、医療の持つ社会的、人道的使命を全うし、病院を健全に運営して被申請人(協同組合)の目的を守るために、申請人を解雇したのであつて、本件解雇について、不当労働行為、あるいは解除権の濫用のそしりを受ける筋合はない。
(疎明省略)
理由
一、被申請人が、消費生活協同組合法に基づいて設立された協同組合であり、昭和三一年六月から松山市民病院を経営して来たこと、及び、申請人が同月一日被申請人に雇用され、以来准看護婦として同病院に勤務していたところ、昭和三七年六月二二日被申請人から解雇の意思表示を受けたことは、当事者間に争いがない。
二、申請人は、本件解雇が不当労働行為であつて無効であると主張するので、これについて検討する。
まず、当事者間に争いのない本件解雇に至るまでの経緯と、証人和田君子、同汐見百合子、同日野清子の各証言及び申請人本人の供述とを綜合すると、一応次のような経過を認めることができる。
(一) 昭和三一年一一月二一日松山市民病院に勤務する従業員(医師、婦長、事務長を除く全員)によつて労働組合が結成された。申請人は、組合結成とともに書記長に選任され、昭和三四年一〇月までその職にあり、ついで執行委員を一年間勤め、昭和三五年一〇月育児のために組合の役職から退いた。そして、右役職に在任中、申請人は、組合の中心的人物として、病院管理者側との間に、労働協約の締結、賃上げその他労働条件の改善等について交渉し、活溌に組合活動を継続していた。
(二) 松山市民病院は、当初ベツト数三〇の旧館で発足し、昭和三二年愛生分院(ベツト数約五〇)を併合したが、営業成績があがるに伴い、ベツト数一三五の新館を建設することになり、昭和三五年着工、昭和三六年八月新館開院の運びに至つた。しかし、従業員側としては、とくに看護婦の賃金平均が官公立の病院のそれと較べると低廉であるうえ、人員不足のために労働量が過重になりがちであつたので、組合は、再三これらの点を問題として取上げて来た。昭和三六年七月ごろから、新館開院に伴う従業員の増員と配置の問題に関して、組合と病院側との間に団体交渉が続けられていたが、同月七日と八日の団体交渉(申請人も、病室看護婦の職場代表である日野執行委員の委任を受けて出席した。)においては、協議がととのつた事項もあつたが、組合側の要求する「夜間外来患者を受付けるならば、外来看護婦の当直制にすること。准夜勤務者を二名にすること。主任看護婦に夜間勤務をさせること。看護婦の欠員を見習看護婦で補うことはしないこと。外来看護婦が病欠した際、これを病室看護婦で補うことはしないこと。」については、完全な了解点には達しなかつた。
(三) 申請人は、同月九日から同年九月一日までの間、肋膜炎のため病院を欠勤した。但し、その間同年八月八日には、五年勤続従業員として病院から表彰を受けた。
(四) 病院の業務(旧館)は同年八月九日から新館に移転したが、病院側が約束していた増員が完全には実現していなかつたことや、従業員の不馴れ等のために、一時かなりの混乱が生じ、看護婦の労働量は従前に増して過度になつた。そこで、組合は、同年九月四日病院側と団体交渉を行い、薬局員、炊事夫、調理士を増員すること、準夜・深夜勤務者をそれぞれ二名にすることを強く申入れた。申請人は、当日も三好執行委員の委任を受けて団体交渉に出席していたが、席上法定看護基準に関して組合と病院側のいい分がくいちがつた際、申請人が詳細に自己の見解を説明したところ、病院側(中西院長、鈴木事務長代理ら)が返答に窮してしばらく沈黙するという場景があつた。そして、最終的には、病院側が夜勤等の実態調査をしたうえ、さらに団体交渉を続けることになつた。
(五) 組合は、同年九月一二日組合大会を開き、従業員の増員労働過重の是正等に関し従来の要求を維持することを再確認した。そして、次の団体交渉が同月一四日に行われる予定であつたところ、当日になつて、被申請人は、理事会を開催するからという理由で延期を申入れ、ついで翌一五日、中西院長は、組合に対して、申請人を解雇するため労働協約中の協議約款により協議したいと申入れるとともに、申請人に対しては、口頭で出勤停止処分に付する旨通告した。
(六) 組合は、同月一八日組合大会を開いて不当処分撤回のためのスト権を確立した。これに対して、被申請人は、翌一九日右出勤停止処分は撤回したが、翌二〇日組合との解雇協議において、申請人を解雇する理由として「申請の理由第二の二」に記載したとおりの内容を示した。その後、申請人の解雇問題に関して、愛媛県地方労働委員会において調停及び斡旋が行われたが、結局、申請人と被申請人間では妥協がつかず、被申請人は、昭和三七年六月二二日申請人に対して解雇の意思表示をし、口頭で右と同様の解雇理由を通告した。
(証人鈴木武及び同中西恒心の各証言中以上の認定に反する部分は採用できないし、他にこれを動かすに足りる疎明はない。)
そうすると、申請人が、過去において組合幹部であつたばかりでなく、本件解雇の意向が表明された昭和三六年九月当時団体交渉に出席する等の組合活動を行つていたこと、しかも、増員問題等に関する団体交渉が継続中であつて、組合の活動が一層強化されようとした時期に、突然申請人解雇の意向が表明されたことが認められるから、これらの点から考えると、本件解雇については、特にこれを正当づける合理的理由が立証されないかぎり、被申請人が、申請人の組合活動を嫌悪し、組合に対する一つの対抗手段としてとつた解雇であると推認されてもやむをえない情況があるといわざるをえない。
そこで、被申請人の提示した前記解雇理由について考えて見よう。成立に争いのない甲第二号証によると、就業規則第九条第六号に、従業員を退職させる基準として「業務の縮少その他正当の事由のあるとき」と定められていることが認められ、被申請人は、右解雇事由が右規定の「正当の事由のあるとき」に該当すると主張する。そして、右解雇理由を検討すると、その1から7として申請人の行動がほぼ具体的にあげられ、その末尾には申請人の行動に対する被申請人の総括的判断ともいうべきものが掲げられているのであるが、当裁判所としては、被申請人の指摘する申請人の行動を個々に観察した場合は勿論のこと、これを綜合して考えても、それが労使間の通念に照らして解雇に価する程度のものであり、就業規則にいう「正当の事由のあるとき」に該当するとは、到底認めることができない。その理由は、次のとおりである。
(一) 解雇理由の1と4について。
証人竹村照子及び同赤松瑞恵の各証言によると、申請人は、旧館当時上司の赤松婦長又は竹村主任看護婦に対して、掃除は掃除婦にやらして、看護婦や見習看護婦に雑用をさせるべきでない旨申出た事実のあることが認められるが、申請人本人の供述するように、右発言自体は、看護婦の業務内容を明確にさせる趣旨でなされたものと考えられ、格別不相当なものではなく(赤松証人も、看護婦を掃除に使うことはよくないことは判つているが……と供述している。)、これをもつて、被申請人のように「勤労意欲を阻害する」行動と見ることは、誇張に過ぎるであろう。また、申請人が実際に掃除をしている同僚看護婦にこれをしないよう煽動したり、申請人自身手が空いているのに大掃除の協力を拒んだりした事実は、これを確認できる疎明がない。
(二) 解雇理由の2と3について。
竹村証人は、旧館当時、勤務時間中で休んでいる申請人に他の係の者の手伝を命じても応じなかつたとか、退院患者のシーツの回収を頼んだのにしてくれなかつたとか供述しているが、申請人本人の反対尋問に対する竹村証人の応答とも照らすと、右供述がそのまま真実であるとは認めがたく、他に、申請人が上司から具体的事項を命ぜられながら応じなかつた事実を認める疎明は十分でない。
(三) 解雇理由の5から7について。
申請人が婦長又は主任看護婦に対して被申請人指摘のような発言をしたことは、申請人本人も認めている。しかし、申請人本人の供述によると、5の診療報酬請求事務は医事係が担当すること、7の外来看護婦の欠勤による手不足は外来で補うことについては、かねて組合が団体交渉において要求していた事項であつて、病院側も一応了解していたことが認められるから、それが実行されないために、申請人が上司に問いただしたからといつて、それが上司に圧力を加えたり、命令秩序を阻害することになるなどとは、論議のかぎりでない。また、6の発言についても、申請人本人の供述によると、従来婦長主任の担当となつていた食需箋の作成を、新館開院後にどの係が担当すべきかに関して、主任との間に話合いがされた際、申請人が発言したものであることが認められ、現実に主任から申請人に対してその作成を命じたのに応じなかつたという事実は、これを認める疎明がない。
(四) 解雇理由の末尾について。
被申請人の解雇理由に対する要約は、「上司に反抗して業務の運行を妨げること、同僚を煽動して勤労意欲を低下させること、したがつて、病院の経営秩序が破壊されること」であり、前記竹村、赤松証人、証人大井淳道、同鈴木武、同中西恒心は、いずれも、具体的に事実をあげて、あるいは、抽象的に右と同趣旨の供述をしている。そして、解雇理由の1から7に関するかぎり、右のような要約の前提となる具体的事実が是認できないことは、叙上説示したとおりであるが、その点はしばらくおくとしても、申請人の行動に対する右各証人の批判の根底に、ある偏つた考え方があるように思われる。すなわち、
鈴木証人もいうごとく、病院業務は人命にかかわる業務であるから、これにたずさわる看護婦について、とくに医師との関係、あるいは看護婦相互間に協調性が重要視されることは、当然の事柄であろう。しかし、看護婦業務といえども、近代的契約に基づく雇用関係に立つものである以上、労働関係における給付・反対給付の定量性の原則が妥当すべきことも、当然であつて、右原則を認識したうえでの協調性と、旧来の身分的労働関係観の上に立つて、一方的に看護婦側の献身的奉仕を期待する意味での協調性とは、本質的なへだたりが存在する。右各証人は、それぞれ主任看護婦、婦長、医事課長、事務長代理、病院長であつて、少くとも申請人ら看護婦に対する関係においては、病院管理者側の立場にある者であるが、その供述を通観すると、例えば「正しい正しくないにかかわらず、上司からいわれてますから……」(竹村証人)、「(申請人は)やつてみてこうしようという意見を出すのでなくて、とにかく夜勤は二人でないとやれんといつてつつぱるのです。」(赤松証人)、「(所属長らの空気は)病院のいうことを聞いてもらえない者は、やめてもらうということです。」(大井証人)、「病院のいうことを聞いてくれなければ、医者は引揚げる……」(鈴木証人)などの供述のはしばしからも推測されるように、前記定量性の原則に対する理解が十分でなく、看護婦らと民主的討議(ここにいう民主的とは、反対意見に対する普遍的な寛容という程度の意味で用いる。)をつくすことに反感をもち、看護婦らに対しては管理者側の指示、方針にこれ従う従順な態度を切望している傾きがあることは、否定することができない。
そうであるとすれば、右各証人の証言中申請人の行動に対する批判的部分は、その細部についていちいち検討するまでもなく、客観性を保ちえないことが明らかであり、他に被申請人のした前記解雇理由の要約を肯定するに足りるだけの疎明はない。
(五) また、仮に、申請人に非難に値する何らかの規律違反行為があつたとしても、右行為は、解雇の意向を表明した昭和三六年九月の直前に生じたもののみではなく、相当期間経過したものも含まれているのであるから(鈴木証人の証言によれば、昭和三四年ごろの所属長会議から申請人の問題が出ているという。)管理者としては、早期に直接申請人に対して規律違反行為につき調査し、弁明を徴したうえ、必要であれば、就業規則に定められたけん責、減俸、休職等のより軽度の処罰を加えてその反省を求めるべきであるのに、本件においてはそのような方法をとつた形跡は全く認められないし(中西証人は、院長が婦長を通じて注意を与えていた旨供述するが、申請人本人の供述と比較して、その真偽は疑わしく、また、右の注意を与えたとしても、十分とはいえない。)、抜きうちに職場から排除するという重大な処分に出なければならないほどの緊急性があつたことも認められない。
したがつて、この点においても、本件解雇は、労使間の信義則に反し、処分の均衡を失するものがあり、就業規則にいう「正当事由のあるとき」にあたるとはいえない。
(六) なお、鈴木証人の証言により成立を認めうる乙第二号証及び同証人の証言によると、松山市民病院に勤務する医師のうち院長を除く全員(六名)が、昭和三六年九月一三日付で、申請人を解雇されたい趣旨の要望書を作成して、院長及び被申請人の理事長宛に提出していること、右医師らは、院長をも含めて岡山大学医学部の出身であるが、そのころ、右医師間には、要望が容れられないときは、岡山に引揚げるという話さえ出ていたことが一応認められる。
しかし、申請人本人の供述によると、右医師らの勤務した時期から見ても、また、職場の関係でも、申請人と日常接触していた医師はごく少数の者に限られていたことが認められ、したがつて、右医師らがどの程度申請人の行動を把握したうえで、要望書に署名したものか、はなはだ疑問であり、仮に、一部の医師が申請人の非行と同人に対する処分を強硬に主張し、他がこれに同調したものであるとしても、医師七名を擁する病院において、権利意識が旺盛であるとはいえ、わずか一名の、しかも若年の准看護婦の処遇について、対抗的に医師引揚を持ち出すということは、それが真意であるとすれば、いささか穏当を欠くきらいがあるし、そのような事態をやむをえないとするだけの客観的情況も認めがたい。
したがつて、右認定の要望書作成の事実があつたことによつて、本件解雇が正当性を帯びるものでないことは、いうまでもない。
以上のとおりであつて、結局、本件解雇について、被申請人の提示した解雇理由は正当性を有するとはいえないから、さきに認定した申請人の組合活動及び本件解雇に至る経過と考え合わせると、本件解雇は、申請人の組合活動を嫌悪し、同人を病院から排除する目的でなされたものと認めるのが相当である。したがつて、本件解雇は、不当労働行為であり、解雇権の濫用にあたるから、その効力を生じない。
三、次に、成立に争いのない乙第六号証から第八号証に鈴木、中西証人の各証言を綜合すると、被申請人は、昭和三九年一一月三〇日をもつて、その唯一の事業であつた松山市民病院を廃止し、同日までに従業員全員を解雇したこと、一方、引受参加人は、同年一〇月二八日愛媛県知事の許可を受けて設立された財団法人であるが、被申請人から旧松山市民病院の土地建物及び施設一切の貸与を受け(なお、将来寄付を受けることになつている。)、同年一二月一日をもつて、愛媛県知事から病院設備の使用許可を受け、松山市民病院を開設し、実際には、旧病院の業務は中断することなく、その設備一切、患者、従業員(但し、この機会に退職した者も一、二名ある。)をそのまま引継いで現在に至つていること、なお、引受参加人の理事八名のうち五名は被申請人の理事を兼ね、残り三名は旧松山市民病院の医師であることがそれぞれ認められる。
そうすると、被申請人と引受参加人とは法律上別個の経営主体であることは勿論であり、引受参加人は、両者の間に営業譲渡その他労働関係承継の協定は存在しないと主張するのであるけれども、右認定の事実から考えれば、むしろ、他に特段の反証のない限り、少くとも従前の従業員に対する労働関係については、被申請人から引受参加人に包括的に承継するとの暗黙の契約があり、これに基づいて、引受参加人は、病院開設とともに従前どおりの条件で従業員を雇用しているものと推定するのが相当である。
もつとも、鈴木、中西証人は、ともに、引受参加人は、被申請人とは関係なしに、昭和三九年一一月下旬従業員を公募し、書類審査・面接等の手続を経て、現在の従業員を新規採用したと供述する。ところが、右公募なるものは、成立に争いのない丙第一号証(愛媛新聞)によると、同月二四日の同新聞に掲載された引受参加人の職員募集の広告を指すことが明らかであるが、募集人員が看護婦五、六〇名、その他約四〇名の多数であるのに、応募〆切が翌々日の同月二六日となつており、この点から考えても、引受参加人の従業員公募といつても、ほとんどナンセンスに近く、募集広告、選考の手続を経ているとしても、単に新規採用の外形をととのえるためにしたものと推測され、前記の労働関係承継の合意の存在を否定する資料とはいえない。
したがつて、前段に判断したとおり、被申請人のした本件解雇はその効力がなく、申請人は、引続き被申請人の従業員たる地位にあつたのであるから、右労働関係承継によつて、同年一二月一日から自動的に引受参加人の従業員たる地位を取得したものといわねばならない。
四、ところで、証人中川悦良の証言及び申請人本人の供述によると、申請人は、従来被申請人から支給される賃金と夫悦良のえる収入によつて、親子三人の生活を維持していたものであつて、本件解雇以来被申請人からの賃金を絶たれ、生活に困窮している事実が一応認められ、また、本件解雇が無効であつて引受参加人の従業員たる地位が存続しているのにかかわらず、使用者からこれを否定されることは、労働者たる申請人にとつて著しい損害ということができるから、本件仮処分申請については、いずれもその必要性が認められる。そして、成立に争いのない甲第一二号証によると、申請人は、本件解雇当時、賃金として平均一ケ月一二、七二七円(解雇以前三ケ月間の賃金を平均したもの。申請人は、その主張する平均賃金を算出するのに、夏期一時金を加えているが、本件の全疎明によつては、右一時金が恒常的のものかどうか不明であるので、これを除外した金額により平均賃金を定める。)の支給を受けていたことが認められるから、被申請人に対しては、本件解雇の月の翌月から昭和三九年一一月まで右割合による賃金合計三六九、〇八三円の仮払いを命じ、引受参加人に対しては、申請人をその従業員として取扱い、かつ、同年一二月一日から本案判決確定まで毎月末日限り一二、七二七円の仮払いをすべきことを命ずるものとする。
五、よつて、申請人の本件仮処分申請を前段の限度で認容し、その余の申請部分を却下することとし、民訴八九条、九二条、九三条に従い、主文のとおり判決する。
(裁判官 橋本攻 上野智 山口茂一)